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一人目は、パナソニック創業者の松下幸之助氏です。
経営者としての実績はもはや説明不要で、一般向けの書籍も多数出版されていますので、知らない人はいないのではないでしょうか。
そんなパナソニックも、社員3人の小さな会社から始まりました。
それがどのようにして世界のパナソニックへと成長を遂げたのか、松下氏の経歴に触れながらご説明します。
松下幸之助氏は、明治27年(1894年)に和歌山県海草郡和佐村字千旦(せんだん)ノ木で生まれました。
松下家は小地主の階級で、かなりの資産家だったといいます。
8人兄弟の三男で末っ子でもあった松下氏は、両親にとてもかわいがられ、毎日を楽しく過ごしていたそうです。
しかし、松下氏が4歳のとき、父親が商売で失敗をしてしまいます。
先祖代々受け継いできた土地と家を売り払い、一家は和歌山市へと移住することに。
その後父親は単身大阪へ働きに出ていたそうですが、松下氏が9歳のとき「手伝う人が欲しい」との理由で父親に呼ばれ、1人で大阪まで丁稚奉公に出ることになりました。
火鉢店を経て自転車店に移った松下氏は、ここで頭の下げ方、言葉遣い、身だしなみや行儀など、社会人・商人としてのイロハをみっちり仕込まれたそうです。
そんな生活を続けて5年ほど経ったころ、大阪に電気鉄道(通称チンチン電車)が走りました。
それを見た松下氏は、「これからは電気の時代だ」と予感したそうです。
1910年、大阪電灯株式会社の見習工として採用された松下氏は、腕を認められ最年少で検査員となります。
しかし、当の本人は仕事に物足りなさを感じていました。
加えてこの頃は、肺結核の初期症状に悩まされていたこともあり、不安定な日給生活をやめて何か商売を始めようと考えました。
そして1917年、22歳の若さで大阪電灯を退職し、翌1918年には松下電器器具製作所(現:パナソニック)を創業しました。
たった3人で始めた会社を、世界に誇る大企業へと成長させた松下氏。
その過程で築いた莫大な資産は、主に社会貢献活動へ使われたといいます。
ここでは、その使い道についてご紹介します。
東京浅草にある浅草寺、そのシンボルともいえる雷門ですが、1865年に火災で焼け落ちていたのをご存じでしょうか。
そこから100年近く、再建されずそのままとなっていました。
その雷門を復興させたのが、松下氏です。
1950年、原因不明の神経痛に悩まされていた松下氏は、あるとき知人から勧められて浅草寺で祈祷してもらったそうです。
すると不思議なことに、治ってしまったとか。
その後1958年に、今度は浅草寺側から松下氏に、雷門の再建が依頼されました。
松下氏は、「寄進させていただきます。しかしなるべく名は出さないでください」と答えたそうです。
こうして雷門の再建が始まり、1960年に完成しました。
現在、我々が当たり前のように雷門を見ることができているのも、松下氏のおかげなのですね。
1960年代、大阪梅田の中心地である大阪駅前東交差点は、交通の混雑がひどかったと言われています。
それを緩和するため、架橋計画が立てられました。
しかし、資金不足の影響で計画が行き詰まっていたそうです。
その話を知った松下氏は、1964年2月にこの橋の寄贈を申し出ました。
そのおかげで陸橋の建設が進み、無事1964年10月に完成しました。
当時、大阪駅前の広場と周辺の百貨店をつなぐ日本最大規模の橋として話題になり、現在でも使われ続けています。
生涯をかけて、理想社会の実現を追い求め続けた松下氏。
その原点には、「物と心の繁栄を通じて、平和で幸福な社会を実現したい」と願う強い想いがありました。
そして、パナソニックを離れてからしばらく経過した1979年、未来のリーダーを育成するための「松下政経塾」を84歳にして設立します。
そこには、「我が国を導く真のリーダーを育成しなければならない」との想いもありました。
塾の設立には、70億円もの私財を投入したと言われています。
「生活の心配なく、研修に打ち込んでほしい」という松下氏の想いから、現在でも入学金や授業料は不要で、塾が資金を提供しているそうです。
他にも、幕末や明治維新を専門とする日本唯一の博物館「霊山歴史館」の初代館長を務めたり、日本の科学技術発展に向けた「日本国際賞準備財団(現:国際科学技術財団)」を立ち上げ、初代会長となりました。
松下氏というと、その輝かしい経歴や実績にただただ驚きます。
そこには、どのような成功の秘訣があったのでしょうか。実際のエピソードとともにご紹介します。
松下氏の成功は、「ないない尽くしからの成功」と言われています。
お金、学歴、健康にあまり恵まれていませんでした。
しかし、その境遇を恨むのではなく、逆に利用することで成功へとつなげていきました。
お金がなかったからこそ、早いうちから丁稚奉公で商売のいろはを学ぶことができましたし、地道な計画で事業を進めていくこともできました。
身体が弱く健康に困ったからこそ、人に仕事を頼むことができました。
そして学歴がなかったからこそ、誰に対しても謙虚な姿勢で向き合うことができ、人から教わることができました。
幼少期から何でも与えられていたら、あの「松下幸之助」は誕生していなかったかもしれませんね。
松下氏は、経営者の役割の一つは「従業員に夢を持たせ目標を示すことである。それができない経営者は経営者失格だ」と語ったそうです。
目標を掲げること自体は、どの経営者にとっても当たり前のことでしょう。
しかし、従業員にやる気を起こさせ、一致団結して目標に立ち向かうよう促すのは簡単ではありません。
その点、松下氏は普段から従業員に対して目標や理想を語り、認識のずれが生じないよう意識していたと言われています。
かつて松下氏は、大阪の街を走るチンチン電車を見て、「これからは電気の時代が来る」と予感したそうです。
このエピソードからも、時代の流れを把握し、それに合わせて動くことができる人物であったことが分かります。
世の中は常に変化し続けています。
その変化をいち早くキャッチし、時代が求める事業を展開していくことが、経営者に求められていると言えるでしょう。
松下氏は、人材を大切に育てることを心がけていました。
「松下電器は人をつくるところでございます。併せて電気製品も作っております」というコメントがその考えを象徴しています。
パナソニックの創業当初は、当然ながら規模も小さく、名も知られていない町工場でした。
そんな会社に来るのは、他の会社が採用しないような人たちで、仮に採用したとしても出社しないことすらありました。
ある社員を採用した翌日、松下氏は外に出て、その子が出社するかどうかを待っていたそうです。
そして、無事出社したことを確認できると急いで中に入り、素知らぬ顔でその子を迎えたとか。
このような時代を生きてきたということもあり、「社員は大事にしなければならない。大事に育てれば育つ」という考えを強くし、人材育成に力を入れていました。
会社が大きくなっていった後も、1人ひとりの人材と真摯に向き合い、そのポストを任すことができるまでしっかり教育したそうです。
ここで、ある社員のエピソードをご紹介します。
その社員は、入社以来20年以上、経理部門で勤務していました。
しかし、24年目にして突然、工場長に任命されました。
当然ながら現場仕事は全くの未経験で、自分だけでなく周りからも心配されたそうです。
しかしそんな不安も束の間、着任すると毎日松下氏から電話がかかってくるようになりました。
「従業員は何人来ているか」
「困っている者はいないか」
「今日はどれぐらい売れたのか」
など、朝から晩までひっきりなしに電話がかかってきたため、気が抜けなかったといいます。
普通に考えても、大企業のトップが、一工場長を相手に手取り足取り教育するのはとても珍しいことです。
しかし、松下氏は、この社員に工場長を任せられるまで、しっかりサポートしたといいます。
2週間にわたり毎日電話がかかり、その後は3日に1度、1週間に1度、2週間に1度と徐々に回数が減っていき、やがて1度もかかってこなくなりました。
その後、その社員はパナソニックの経理担当役員に抜擢され、活躍したそうです。
工場長として現場を率いた経験が、経営の感覚を養うことに繋がったのは間違いないでしょう。
皆さんは、「水道哲学」という言葉をご存じでしょうか。
この考え方は、1932年に当時の全従業員を集め、松下氏が力強く宣言したものです。
まるで水道の水のように、次々と物を生産していき、水のように無尽蔵とすること。
それにより、誰にでも入手できる価格で提供し、貧乏を克服しようという考えです。
松下氏本人は、一度も「水道」という言葉を使った表現をしていませんが、世の中には「水道哲学」として広く知られることとなりました。
当時は、いいものを安く買える時代ではありませんでした。
そういった社会課題のもとに掲げられたビジョンですが、松下氏はさらにその先を見据えていました。
「精神的な安定と、物資の供給が相まって、初めて人生の幸福が安定する。自分が松下電器の真使命として感得したのはこの点である」と述べたそうです。
つまり、物と心の両方において豊かさの実現を目指していこう。
そのように考えていたということです。
この宣言が世に出てから90年以上が経ちますが、今我々は物だけでなく心も豊かになっているでしょうか。
とても考えさせられる話だと思います。
二人目は、リクルート創業者の江副浩正氏です。
江副氏といえば、戦後日本最大の企業犯罪と言われている「リクルート事件」を想像する方もいるのではないでしょうか。
そんな江副氏ですが、今では当たり前となった学生向け就職ガイドブックを考案するなど、起業の天才として高く評価されていました。
たった1人で始めたリクルートという会社が、どのようにして日本を代表する会社へと発展したのか。
江副氏の経歴に触れながらご紹介します。
江副浩正氏は、1936年に大阪市で誕生しました。
自身が1歳のとき、母親が病で生家に帰ったため、住み込みのお手伝いさんに育てられたそうです。
父親はとても厳格だったため、江副氏は親に心を開くことができなかったといいます。
その後、第二次世界大戦による疎開を経て、再び大阪での生活を始めますが、とても貧しく苦しい思いをします。
小学校の健康診断で「栄養失調」と診断されるほどだったとか。
それでも後年、「当時の貧しさの体験が、私をハングリーな人間にした」と江副氏は語っています。
そんな苦しい生活を送りながらも、卒業生総代に選ばれるほど成績が良かった江副氏は、関西の名門である甲南中学・高校を経て東京大学へ入学します。
しかし、授業に興味が無かった江副氏は、次第にアルバイトへ精を出すようになります。
そしてある時、大学の掲示板に貼られていた求人が目に留まり、応募・採用されました。
内容は、「東大新聞の広告を開拓する」というもの。
その報酬は、当時の大卒初任給に匹敵するほどで、大変魅力的な一方で求められるレベルも高いものでした。
なかなか成果が出ず、一時はやめることも考えた江副氏ですが、大学の掲示板に貼られていた会社説明会の案内を見て、ひらめきます。
それを東大新聞の広告にすれば良いのではないか、と。
先方からもOKをもらい、その結果説明会には大勢の学生が参加するほどの盛況ぶりでした。
そこで自信を付けた江副氏は、「会社説明会の広告」という新たな分野を開拓しました。
大学卒業を迎える頃には、大卒初任給の60倍もの月収を得るほどまでに成長。
「サラリーマンにならず、自由とお金の両方を手にしたい」と考えた江副氏は、フリーランスの広告代理業の道を選ぶことにしました。
このとき創業したのが、「大学新聞広告社」であり、のちのリクルート社です。
1989年、リクルート事件が起こりました。
リクルートの会長として責任を取り、江副氏は表舞台から姿を消しました。
戦後日本最大の企業犯罪と言われているリクルート事件を経て、多くの方は江副氏に対して犯罪者というイメージをお持ちなのではないでしょうか。
実際、リクルート社においても江副氏のイメージを払拭するため、事件前後で経営理念を一新しています。
しかし、それ以降もリクルート社内部では、「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という言葉が入ったプレートを机に飾るベテラン社員がいたといいます。
また、リクルート社を離れていった人たちの中にも、この言葉を人生訓として持ち続けている人がいたそうです。
犯罪者としての烙印を押されながらも、強い影響力を持っていた江副氏。
そこまで人を惹きつける魅力とは、一体何だったのでしょうか。
経営者にとって、自分の方針や考え方を打ち出し、それを部下に伝えることは重要です。
しかし、それが会社の方針や理念と合致しているかどうか、また形だけの言葉になってしまっていないかを常に確認する必要があります。
その点、「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という言葉は、
・社訓でありながらも個人に焦点を当てている
・会社と個人との距離感が現代的
という点で普遍的だと言われています。
まずは自分の成功のために努力すれば、それが結果的に会社のためになる。
また、会社は自由を与えてくれるが、責任はあくまでも個人が取る。そうして結果を出した人間は、おのずと高い市場価値を手に入れる。
こういった考え方が、今も変わらず江副氏が強い影響力を与え続ける理由なのかもしれません。
江副氏の類まれなる才能と経営手腕によって、リクルート社は順調に成長していきます。
広告代理業の分野ではトップの地位を築いたわけですが、そうなるとライバルの参入が始まります。
特に、1967年にダイヤモンド社が「就職ガイド」を創刊したときと、1983年に読売新聞が「読売住宅案内」を創刊したときには、リクルート社内に大きな緊張が走ったそうです。
そのような状況で江副氏は、
「同業者競争に敗れて2位になることは、われわれにとっての死である」
「生き残るのはナンバーワンだけだ」
と社員たちを鼓舞し、徹底的に勝ちにこだわりました。
歴史のあるダイヤモンド社に対しては、数で勝負せず、これまで取り上げてこなかった企業広告を載せることに注力しました。
その努力が実を結び、圧倒的なシェアを維持し続けることに成功しました。
読売新聞に対しても同様に立ち向かい、わずか3年で「読売住宅案内」を廃刊へ追い込みました。
江副氏は、「社員皆経営者主義」を掲げ、社員の意識向上に努めました。
とはいえ、実際に社員に対してその意識を根付かせるのは難しいこと。
そこで江副氏は、権限や機会を社員全員に与えるようにしました。
それは、新入社員であっても同様です。
自分のやりたいことに予算を付け、本人を責任者として自由に仕事をさせるのです。
こうして、自ら機会を作り出した社員が、主体的に成長して行ける仕組みを作り出しました。
また「圧倒的当事者意識」というのも、江副氏ならではのやり方です。
社員に対して、
「君はどうしたいの?」
と良く問いかけたそうです。
すると相手は、自分の意思を言葉にして伝えようとするため、目標に対して当事者意識を持つようになります。
加えて、顧客や市場、消費者の動きも自分事と捉え、「自分が顧客だったら何をしてほしいか」を徹底的に考える癖を身に付けさせました。
そして、優秀な人材を1人でも多く採用するため、就活を控えた学生を貸し切った寿司屋に呼び込んだそうです。
その場で江副氏は、「一緒に歴史を創らないか」と語りかけたとか。
また、どれだけ重要な仕事があっても、どうしても採用したい学生の面接がダブルブッキングした場合、
「僕は面接に行くから、あとは皆で決めておいて」
と会議室を立ち去った、というエピソードもあるほど。
こうして社内にも「採用が最も重要である」という意識が根付き、それが今のリクルート社にも引き継がれています。
江副氏は大学卒業後、広告代理業の道へと進んだ際、高度経済成長期の日本が抱えていた人材採用の課題をいち早くキャッチしていました。
当時企業の採用意欲は高く、実力ある若者を積極的に採用したいと考えていましたが、そのための手段が少なかったといいます。
一方で、学生側も企業情報を入手するための方法が少ない、という状態でした。
このままでは、企業は採用がうまくいきませんし、学生自身も本当に生きたい企業を見つけることができません。
そんな時、大学の先輩から入手した米国の学生向け就職ハンドブックを見て、日本向けに自前の就職ハンドブックを作成すると決意しました。
これが、のちのリクルートブックとなるものです。
こうして、企業広告だけの本を無料で学生に配布し、求人広告を出した企業からの広告収入だけで運用する、というこれまでにないビジネスモデルを確立しました。
リクルートという企業も、これで大きく成長することになります。
その後、インターネットがこれから先急速に普及していくことで、紙からネットワークへとサービスの土台が変わっていくという考えを持つようになります。
そして1985年、自分たちが紙の情報誌で作ってきた情報ビジネスをオンラインサービスへ乗せ換えるというビジョンのもと、そのために「東大クラスの理工学部を1,000人採用する」という大きな決断をしました。
どうすれば、広告業の会社へ理工学部の学生たちを集めることができるか。
そう考えた江副氏は、当時最先端と言われていたスーパーコンピューターを何台も購入し、70億円もの投資を行ったそうです。
加えて、その費用を「採用費」として計上したとか。
その結果、「リクルートに行けばスーパーコンピューターが使える」という評判が学生内で広がり、目標としていた理工系学生の1,000人採用を達成しました。
今回は、パナソニック創業者の松下幸之助氏と、リクルート創業者の江副浩正氏をそれぞれご紹介しました。
圧倒的知名度で、「経営の神様」として今でも多くの経営者から支持され続けている松下幸之助氏。
一方、天才的な経営手腕で、リクルート社を大きく育て上げたものの、リクルート事件によって表舞台から退くことを余儀なくされた江副浩正氏。
対照的なお二人ですが、そのエピソードから見えてくる考え方や価値観は、どちらも現代に通じる普遍的な考え方であったと感じます。
今となっては、お二人から直接お話を伺うことはできませんが、激動の時代を生き抜いた両者の考え方や価値観が伝わってきたのではないでしょうか。
ここでご紹介した内容が、起業家を目指す人の背中を応援することができたら嬉しく思います。